「アンタのせいね、きっと」
「ん?なにが」
静かな高校の一室では声はゆっくりと波紋を広げるように響く。だから囁く。
あたしは藤代のレジメンタルタイをゆっくりと解く。えんじ色のそれは元々きっちりとは結ばれていないけれど。
藤代の緑色(本人いわく森色)のブレザーも、あたしの紺色のシンプルなブレザーもとっくに脱げていて、パイプいすの背もたれに並んでかかっている。
普段の藤代なら脱ぎ捨てているだろうが、今日はそうはしなかった。
額、瞼、眉間、頬、鼻先。藤代に次々と口唇を押しつけられる。
「こう、なんていうか、恥知らず?な真似が出来るようになったのは」
「それはここが小島のガッコウだってことを言いたいの?」
「そう」
藤代の唇に噛み付いた。あくまで噛み付く。けして口付けはしない。歯を立てて噛み付く。メンソールの香りがする。
「別に良くない?」
「リスキーだわ」
「俺は楽しいよ?」
恋人の高校に他校の制服を着たまま侵入することが?それとも一ヶ月ぶりに会う恋人が心変わりしていないかどうか確かめる行為?それかただ単にこうやってくっつきあって、ささやきあってることが?
「んー全部」
「そう」
薄暗い資料室の壁はいつも冷たい。触れている背中の体温が下がっていく気さえする。 動くたびに埃が舞う。
古ぼけた地球儀、色褪せた世界地図、積み重なった資料集、こっそりカギをかけたドア。閉鎖されたひっそりとした空間。
「楽しいよ、小島はわかりやすいし」
「どうゆう意味?」
「だって俺の事、まだ好きでしょう?」
藤代はごく当たり前に笑った。この人はいつでも正直だ。思ったことをそのまま口に出して嘘はつかない。つけないのかどうかはわからないけどあたしにはつかない。
「大した自信ね」
もう一度さっきと同じように噛み付く。今度はもっと強く。藤代は一瞬顔をしかめたがまた楽しそうにあたしの鼻先に口付けた。
「だってそれが俺の武器だし」
武器っていうか強み?長所?
「そうね。ほかと違ってそうゆう奴よね」
「ほかって?」
「ほかよ」
でも本当は藤代と比べるような男はあたしの周りには存在しないことは黙っておく。この男は調子に乗らせてもあんまりロクなことをしない。
藤代は小さく首を傾げるとあたしを抱えあげ、落書きとカッター傷だらけの古い机に座らせた。きちんと埃を払ったあとでだ。こうゆう所でポイントが稼げる出来た男だと思う。まだたった16のくせに。自分はやたらと軋む椅子に向かい合うように座った。そしてそのままあたしを見上げる。
「まあ誰であっても負ける気はしないし負けないけど」
そーゆー自信ならあるよ。
「それはあたしも同じ」
「あーでも、」
「なに?」
「小島には負けるかもね」
藤代は歌うように言った。
「どうして?」
「何でも言うことききたくなるから」
わがままでも勝手でも、全部小島の言うことなら。
「なによそれ。なんでも?」
「なんでも。今なにか願い事は?」
「サッカーがしたい」
「残念だなあ、今日は雨だ」
だからこうするべきじゃない?
藤代はあたしの頭を引き寄せて口付けた。今日はじめて唇と唇が重なった。短い間だけど呼吸が止まる。
「首が痛くなる」
「じゃあおいで」
そう言いながら藤代はあたしの目の前で両手を広げた。あたしはため息をついて椅子に座ったままの藤代の足の上に乗った。向かいあったまま。
顔がすぐそこにある。息がかかる場所。呼吸の音が聞こえる位置。
「珍しく素直じゃん」
「あたしはいつでも素直」
「そうでした。」
藤代はまた短く笑う。そして腕をあたしの腰に回した。
「いつもと違う」
「ん?」
「香水。」
「ああ」
首に噛み付いてやると香りがくすぐった。跡でもつけてやれ、と力を込める。
「中学んとき、使ってたのが発見された、昨日」
タクにいい加減、机の上を片付けろっていわれて大掃除したら出てきた。
確かにあの頃の香りだった。まだ沢山の事を知らなかった頃の香り。
今のような関係にあたしと藤代がなった頃、彼が好んでつけていたのがこれだ。今でも覚えている自分に少し驚く。
香りとか音とか直接、五感を刺激するものは忘れられないのかもしれない。これを私は藤代のものとして覚えているのだ。過去のものだったとしても、この先もあたしはそう認識していく。誠二も同じようにあたしをそうやって覚えてるかもしれない。今日は香水をつけてないけど、なんでもいい、なにかあたしを構成しているものをそうゆう風に覚えてほしいと思った。
「懐かしい感じがする」
「小島は制汗剤の匂いがする」
「体育だったの5限。残念ながらサッカーじゃなくてバドミントンだったけど」
「けっこー好き、バドミントン。うまいよ俺」
「藤代は何でも出来るじゃない。てゆうか万能よね、ほんとに」
藤代は返事をしなかった。 その代わりにあたしの胸元のリボンが解けた。細い紐のような、藤代のネクタイと同じえんじ色。
「やっぱりこうゆうのって恥知らず?」
「さあ、藤代はどう思う?」
「放課後だし、誰もいないし、暗いし別に良くない?」
「やっぱりアンタは恥知らずよ」
あまりにも藤代らしい意見にあたしは笑いながら彼の腹をグーで殴った。やつは軽くうめいてあたしの手首を掴む。どうせ大したダメージなんかない。シャツの下にとても鍛えられた筋肉があることを知っている。
「手を出すのは反則」
「今はサッカーをしてるんじゃないわ」
だからルール違反はしてない。 雨だから出来ないって言ったのは藤代でしょう。
あたしはわざとらしく首をかしげて見せた。
「じゃあ違うことをしよう」
唇を塞がれてあたしは声を失った。何の音も聞こえなくなった。

髪の毛から爪先まで全部。 全部伝わるように繋がるように何度も何度も。

あたしたちはただゆっくりと熱情の中に落ちていった。   




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