かわいいひと



浅海レナは木曜日の夜、たいてい三上亮の部屋に行く。
付き合ってから何となく始まった習慣だ。
金曜日は会社の付き合いがあったり、友達と会ったりするから木曜日。どちらかが言いだしたわけじゃないけど、いつのまにか“そういうこと”になっている。


仕事を終えて、人があふれるデパ地下で買ったパステルのプリン(三上は他の甘いものはあまりに口にしないがプリンだけは好きなのだ)をお土産にレナは三上の部屋を呼び出した。オートロックの呼び出し音が無機質なマンションのエントランスに響く。
11月に入ってぐっと寒くなった。吐く息が白い。
「はい」
不機嫌に聞こえるけれど、ただ声が低いだけで実際は何とも思っていないことは長い付き合いのなかでわかった。出会ったばかりの、入社したころはこの声が少し怖かった。
「レナ」
名前だけ告げると三上は返事をせず、ガラスのドアを解錠した。三上の部屋は3階で春になると隣の公園の桜が見下ろせるベランダのついた1LDKだ。もう3回は一緒に眺めた。缶ビールを片手に並んで。
エレベーターは最上階だったので、レナは待たずに階段を上った。


出迎えるという概念がない三上はキッチンに立っていた。玄関を開けて入ってきたレナに「もうメシできる」とだけ告げるとガスレンジの上の鍋に視線を戻した。
三上は目にかかりそうな長さの前髪を下ろして、セルフレームのメガネを掛けていた。長袖のTシャツに濃紺のジーンズ。
普段、三上は前髪を上げていて、コンタクトレンズを使っている。仕事中は当然スーツ。同期と言えど、働いているフロアが違うのでそう頻繁には会わないし、見かけない。だからレナにとってはこの姿の方がなんとなくしっくりくる。
「何作ってるの?」
時刻は間もなく8時でおなかはだいぶ空いている。
「カレー」
後ろからのぞきこむと両手鍋には挽き肉カレーがぐつぐつと煮えていた。三上の作るカレーは大きな具がごろごろ入ってる。単純に野菜を切るのが面倒なんだろう。木曜日のために(少なくともレナはそう思っている)三上が作る定番の料理だ。
「皿出して。で飯よそって」
「はあい」
三上の部屋にはもともと必要最低限の物しかない。リビングにはダイニングテーブルとソファとテレビ。寝室にもベッドとパソコンデスクと本棚ぐらいしかない。だからキッチンの食器の数なんていうのはたかが知れている。
おかげで物の配置はもう覚えている。レナは迷うことなく浅くて丸い皿を食器棚から取り出し、最新型の炊飯器からご飯をよそう。炊き立てなので匂いだけで食欲がそそられる。
「亮はどんくらい?」
皿に半分、ご飯をのせると三上に見せる。
「もうちょい」
「りょかい」
「あとサラダ冷蔵庫にあるからだして」
全部を食卓に並べるとちょうど時計の針が8時を指した。


赤ワインのボトルの底が見えるころ、テーブルの上の料理が片付いた。レナも三上もアルコールに弱くはない。でも強くもないのでこれぐらいがちょうどいいのだ。
すっかり空になった皿を前にごちそうさま、とレナが言うと、「はい」と三上は返事をした。
「ねえ」
「なに」
「前髪」
「髪がなに」
「邪魔じゃないの」
「…」
「切ればいいのに」
ここで三上の眉間に皺が寄ったのがレナはわかった。3年も付き合っているのだ。さすがに気付く。だけど今の会話のどこに問題があったのか見当もつかない。三上は無言で席を立つと食器を持ってキッチンに行き、勢いよく水を出して洗いはじめた。なんだかわからないが怒らせたらしいということだけはレナにも分かった。
好きな色も好きなブランドも音楽や本も高校の頃の話も生まれ故郷の思い出も、もう語り尽してしまったんじゃないかとというくらい一緒にいたと思う。それでもまだわからないことがあるから一緒にいるのだ。それに三上がこう突発的に何かするときは理由がちゃんとある。
「あきらくーん」
「なんだよ」
「なに怒ってんの」
「怒ってねえ」
「私にバレバレな嘘つくのやめてよ」
「…」
「プリン買ってきたよ」
三上の肩がぴくりと動いた。
「パステルの」
「食う」
「理由を教えてくれたらね」
レナがニッと笑うと三上は大きく溜息をついて、お前の皿寄こせと言った。


テーブルではなく、真っ黒のソファで並んでプリンをつつく。三上のために淹れたコーヒーと、自分用のアールグレイの紅茶もローテーブルに上に置く。プリンはさすがに300円するだけあって美味しい。
三上はうめえな、とだけ言って黙々と食べている。
「で、何?」
「何が」
「なんで怒ってるのかね、亮くんは」
「・・・」
「ちょっと黙んないでよ」
「もう怒ってねえからいい」
「いや言って。言わなきゃわからないことがあるなんてことは、いい加減学習したでしょうが」
レナが詰めよると観念したように三上は空になったプリンのカップをローテーブルの上に置いた。
「お前が言ったんじゃん」
「何を?」
「前髪」
「はい?」
「切るなって」
「言ってないよ」
「いや、確かにそうは言ってねーんだけど」
「もう、はっきり言ってよ」
「だから、お前が言ったんだよ、お前が下からかき上げるの好きって」
かきあげる?
その言葉だけをヒントにレナは回想する。

どのくらい前だったか、定かではないが記憶にないわけでもない。いつかの木曜日だ。
いつもよりレナも三上も酔っていた。その日、キッチンに立ったのはレナでビールを飲みながら料理をして三上にあきれられたのだ。(でも結局三上も食事の前から飲み始めたので同じだ)いい気分でご飯食べてさらに飲んで、白ワインを2本開けて、ささいな、どうでもいいことで笑った。
そのまま、食事の後片付けもしないまま、ソファでじゃれた。
子供のように笑って自分にのしかかってくる三上が可愛かった。営業部のエースと社内で注目を浴びている男が屈託なく笑う姿がいとおしかった。
レナはすっかり思い出した。
「私、亮の髪、上げるの好きだな」
三上の長くの伸びた前髪を自分の手でかき上げると気分が良かった。自分の男が無防備でいるのはどうしようもなく、ときめいた。
レナは自分がぽそりといった言葉を三上が覚えていたことにも驚いたが、そのために前髪を短くしなかった三上にはもっと驚いた。


「何笑ってんだよ」
「いやだって」
くつくつと笑うのが抑えられない。三上は拗ねたように鼻を鳴らした。
なんて可愛い男だろう。
「いつまで笑ってんだよ、お前」
三上の腕が背後から伸びて、後ろから抱きしめられる。レナはようやく顔を上げた。
少し怒ったような顔をして三上は黙っている。(でもこれは照れているのだ)

今夜はその前髪をかき上げて額にキスをしてあげよう。



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