自分を取り巻く世界に定義というものがあるとすれば、二つ、当てはまるものがある、と椎名翼は思う。
一つ目は「サッカー」
それにかかわるすべての人間、例えばコーチやチームメイト、自分の身に今まで起きた出来事、過去にした決断、全部をひっくるめてひとつのカテゴリー。
それがサッカー。一つ目の世界の定義。
そしてもうひとつが「西園寺 玲」
15歳の椎名は利口だったけれど、自分の内側に住みついた人間をあっさりと突き放せるほど大人ではまだなかった。
やっぱり彼女は特別なのだ、と思う。特別であって大切であって、明らかに何かが違う。
それが椎名にとっての西園寺だ。

西園寺は椎名にサッカーを与えた人間だ。常に手を引っ張って椎名を育て上げたわけではないけど、やっぱり西園寺が椎名に「与えた」のはサッカーだ。
そう思えば彼女はサッカーの枠組みの中に収まってしまいそうだけれど、彼女は別格なのだ。
サッカーのいう贈り物を椎名にしたのが西園寺であっても。
サッカーは椎名を構成する要素のとても重要な部分だけれど西園寺はその中に入れてしまうことはできない、サッカーでくくれないほど椎名の中で大きい。

そうとても美しい、美しい、椎名の唯一の想い人だ。


ハピネス


椎名の生まれた日はいつも桜の散る頃にやってくる。
悲しそうな響きを持つけど実際はそうではないと椎名は思う。桃色の一片がふわふわと吹雪く。
いつも西園寺は椎名に風に流れる桜が一番綺麗だと言った。
あなたが生まれたことを祝福しているようね、とも言った。
ずっと昔から。
椎名がまだ西園寺の腕にひかれて、白黒のボールを抱えて、グラウンドに向かっていた時から。
制服を着た高校生の西園寺が熱中していたサッカーを椎名も自分のものにしようと思った時から。

***
ゆっくりと歌声が聞こえる。
「LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDSだっけそれ。」
歌う声に引き寄せられるように椎名は西園寺の自室のドアをノックした。
ドアは半開きになったままで洋書の混ざった本棚の前に立って本を抱える西園寺の背中が椎名からはよく見えた。
何もない日曜日は久しぶりだ。4月半ばのひどくあたたかい日。ゆったりと流れる穏やかな風。やわらかに差し込む太陽の光。
「よく知ってるわね」
「知ってるたってビートルズだろ、それ」
「そうよ」

ルーシーは空の上 ダイアモンドといっしょに

綺麗な発音で歌う西園寺は腕を休めず手際よく、本を棚に詰めていく。
「僕も英語ならおっかな」
「あら、いいんじゃない。将来必要だろうし、翼ならすぐものにするわよ」
「じゃあ玲が教えてよ」
タダだし。
「文法ぐらいしか教えられないわ」
発音はちゃんとネイティヴに習うべきよ。
「いいよそれで」
なんでもいい、どんなものでもいい、なにかがあなたにつながればいい。
「そうね・・・じゃあ最初は歌ね。」
「うたあ?」
椎名にしては子供じみた声をあげた。
「そう、歌。今私が歌ってるやつからね」
「LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS?」
「それよ」
「どうなの。それは」
「あら、立派な勉強法よ?英語の歌を覚えるのも」

ルーシーは空の上 ダイアモンドといっしょに

穏やかな日曜日に聞こえる歌声。
与えられた西園寺との空間はとても心地が良くて、なめらかで、温かくて、どうしようもなくいつも優しい。

ルーシーは空の上 ダイアモンドといっしょに

いつかいつか届きますように、あなたに届きますように、この手に届きますように、
そう想いながら、椎名は歌う。
それでも今はこのままでいいと思う。
いとおしい人が隣にいれば、隣で歌っていれば、隣で笑っていれば、それでいい。
桜の舞う中、今日も椎名は幸せに笑う。









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